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佐橋甚五郎  森鷗外

意地っ張りの家来が自分を信頼しない大殿に対して秘かな仕返しを企てる話を、ミステリー的な手法で描く歴史小説の短編はこれ。
 殿様の物詣に往った帰りに、小姓たちの中で「沼の向こうにいる鷺を鉄砲で撃てるだろうか」という話になった。若い小姓の佐橋甚五郎が「なに撃てぬにも限らぬ」とつぶやいたのを聞きとがめて、蜂谷という小姓が「今ここに持っている物をなんでも賭けよう」と言う。甚五郎が撃つと見事に鷺に命中した。翌日に事件が起きた。「小姓蜂谷が体中にきずもないのに死んでいて甚五郎の行方が知れなくなっていたのである。」そして「蜂谷の金熨斗附きの大小の代りに、甚五郎の物らしい大小が置いてある」一体何が起こったのか‥‥
 鷗外の残した作品の中で、武士の意地をテーマにした歴史小説は、「阿部一族」が有名であるが、物語のスケールが大きく、ミステリーの味わいのある「佐橋甚五郎」も一読忘れがたい作品となっている。明治現代小説と同じように、歴史小説においても新しい文学の形式や内容を模索し試行していたところが見て取れる。この試みがさらに続けられやがて「渋江抽斎」などの史伝ものに進んでいくのである。

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百物語  森鷗外(その2)

作者は作品の中で「僕は生まれながらの傍観者である」と語る。子供の時から大人まで「僕は人生の活劇の舞台にいたことはあっても、役らしい役をしたことがない。」いつも端役にいると述べる。
 作者の年譜を見ると、明治維新の激動の時代にあって、子供のころから勉強に励む秀才で、立身出世を望む家族の期待を一身に受けていたように思われる。作者はその期待に応えて、東京大学医学部を卒業して陸軍に入り、紆余曲折はあったものの、45歳で陸軍軍医総監に上り詰める。また、文学の面でも、小説、詩歌、戯曲、評論、翻訳などの多方面での活躍が輝かしい。それなのになぜ「傍観者」なのか。
 傍観者意識の生まれた要件を推し量ってみると、森家の長男として立身出世のために勉学に明け暮れた少年から青年の時代があげられる。それから、飾磨屋と同じように「無形の創痍を受けてそれが癒えずにいること」が考えられる。たとえば、二十代のドイツ留学によって目覚めた自我における日本と西洋の対立、ドイツ女性エリーゼとの恋愛や登志子との結婚の挫折、小倉への左遷の衝撃、脚気問題への対応の失敗、発禁問題や大逆事件をめぐる当時の情況、革新明治で飾った表層に対する深層に保守した江戸精神の逆襲など。しかし、19世紀後半世界の中で近代化を図らねばならない日本、激動する時代の中で知識のある一人の人間としてどのように生きられるのか。
 話の途中で作者の傍観者を考察する語り口は深刻で暗いように見えるが、最後のオチで「なんちゃって」とひっくり返しにやりと笑う。作者の傍観者という自己認識は、自己批判的であるとともに、諦念に装われた自己弁護であり、自信を秘めた自己肯定でもあったのである。

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百物語  森鷗外(その3)

「百物語」は明治29年作者35歳の時に体験したことを素材に、明治44年作者50歳の時に創作した小説である。
 この作品には実在の人物が実名で出てくる。漢学者の依田学海、翻訳家の長田秋濤、小説家の尾崎紅葉などである。また、百物語の主催者「飾磨屋」のモデルが今紀文と称された写真師の鹿島清兵衛、東京で最も美しい芸者「太郎」のモデルが新橋の玉の家の名妓初代ぽんたである。
 ストーリーの流れは、「僕」の百物語の催しへの関心から始まって、その主催者の「飾磨屋」へ移っていく。そして、「飾磨屋」を「僕」と同じ傍観者であると認め、親しみを感じる。さらに、「飾磨屋」に付き添う「太郎」は病人に付き添う看護婦のように思え、その自己犠牲の姿に驚くのである。
 このストーリーの流れは、長篇史伝「渋江抽斎」に受け継がれている。すなわち、昔の人についての小さな疑問から始まった関心が、渋江抽斎へと向かっていく。抽斎は医者であり、官吏であり、考証家であった。また、哲学や歴史、文芸の署を読んだ。彼は鷗外と同じ道を歩いた人で、親愛し畏敬すべき人であった。さらに、その妻の五百は夫の抽斎に献身的に尽くし、武士の妻として、また一人の女性として見事な生き方を示した。その姿に鴎外は古今を通して変らぬ望ましい女性像を見出したのである。

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