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この作品を読む楽しみは、抽斎や五百の人物像、彼らの人間関係やその歴史にある。そしてそれ以上に、簡潔でリズムのある文体の魅力にある。
たとえば抽斎の死の記述。「二十八日の夜丑の刻に、抽斎はついに絶息した。すなわち二十九日午前二時である。年は五十四歳であった。遺骸は谷中感応寺に葬られた。」
たとえば成善の誕生の記述。「安政四年には抽斎の七男成善が二十六日をもって生まれた。小字は三吉、通称は道陸である。すなわちいまの保さんで、父は五十三歳、母は四十二歳のときの子である。」
たとえば抽斎の四女陸の人物評。「陸は生得おとなしい子で、泣かず怒らず、饒舌することもなかった。しかし言動が快活なので、剽軽(ひょうきん)者として家人にも他人にも喜ばれたそうである。その人と成ったのちに、志操堅固で、義務心に富んでいることは、長唄の師匠として経歴に徴して知ることが出来る。」
余計なものを省いた必要にして十分な文章、そして自由自在な表現に読み惚れてしまうのである。
[2回]
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作者はこの作品を1916年(大正5年)の日刊新聞に1月から5月まで119回連載した。作者54歳の時の作品である。この年3月に母峰子を亡くし、4月に陸軍軍医総監を辞任した。晩年になって作者が文学に専念できる環境が整いつつあったと思われる。
作品の題材になった渋江抽斎とその妻五百は、鷗外にとって親愛し畏敬すべき人であった。作者の老練な筆づかいは自由にかつ細心に動き、抽斎と五百に寄り添いながら、新しい出会いを楽しみいろいろな生き方を味わっているかのようである。この作品を鳥瞰すると、江戸(東京)と津軽藩(青森)を舞台に19世紀から20世紀初めの激動の時代を生き抜いた渋江家の人々や彼らに関わった人々の姿は、その時代の社会の中に産まれ生きて死んでいく人間の喜びと悲しみをそくそくと描き出している。
私は二十歳を過ぎたころ、鷗外の書いた明治の現代小説や江戸の時代小説はおおよそ読んでいたので、カルト的な人気のある作品に思えた「渋江抽斎」に手を伸ばした。予期したとおり、作品の百十九回あるうち二十回あたりで読み進めなくなった。次に取り組んだのは、五十歳を過ぎたころである。ほるぷ出版の大きな活字本を古本屋で見つけ、最後まで読み通した。それぞれの人生の中に命輝くところがあり、しみじみとした味わいのところあり、読み終えた充実感もあった。この作品を熱く語り、盛んに褒める人の気持ちがようやく分かってきた。彼らは皆老境の人である。
今、六十半ばを過ぎて人生の終末も見えてきたこのごろ、この作品を岩波書店の鷗外歴史文学全集の詳しい注を参照しながら読み返してみると、老人による老人のための老人を癒し慰める作品であるとの感が深い。たくさんのさまざまな生や死が刻まれた記述は老人の癒しになるのだろう。また、個人が消滅してもその家族子孫、彼に関わる人々がさらに生き続けるという感慨は老人の慰めになるのだろう。
[1回]
江戸時代後期から明治、大正時代にわたる、一人の武士の人生とその家族や師先輩、友人知人の行く末までを記述した史伝「渋江抽斎」は鷗外文学の第一傑作にあげられている。
史伝と言っても、小説的なエピソードや印象深く描かれた場面が随所に見られる。史伝的手法によって記述された小説といってもよい。たとえば、抽斎が体調を悪くして亡くなるまで8月22日から29日までの簡潔な経過の記録。抽斎の二男の優善は行状が悪く改まらないので、彼を入れる座敷牢が造られたが、大政の大地震でその牢に入るのを免れた話。伝記的な事実の列挙の合間に、小説的感興を催す逸話が次々と現れる。中でも抽斎四番目の妻五百(いお)の話は颯爽としていて小気味よい。たとえば、風呂から上がり腰巻一つで座敷に現れ、熱湯の小桶と懐剣で、賊に取り囲まれた夫を護った話。料理屋で刀を抜いて威嚇してくる男に、「なに、この騙り奴が」と叫んで懐剣を抜いて追い払った話など。
この逸話満載の史伝は一年間にわたるNHKの大河歴史ドラマに格好の素材である。あるいは、抽斎の妻五百の生涯を中心にした大河伝記ドラマにして、古くて新しい普遍的な女性像を描き出すことも魅力的な企画である。
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