作者はこの作品を1916年(大正5年)の日刊新聞に1月から5月まで119回連載した。作者54歳の時の作品である。この年3月に母峰子を亡くし、4月に陸軍軍医総監を辞任した。晩年になって作者が文学に専念できる環境が整いつつあったと思われる。
作品の題材になった渋江抽斎とその妻五百は、鷗外にとって親愛し畏敬すべき人であった。作者の老練な筆づかいは自由にかつ細心に動き、抽斎と五百に寄り添いながら、新しい出会いを楽しみいろいろな生き方を味わっているかのようである。この作品を鳥瞰すると、江戸(東京)と津軽藩(青森)を舞台に19世紀から20世紀初めの激動の時代を生き抜いた渋江家の人々や彼らに関わった人々の姿は、その時代の社会の中に産まれ生きて死んでいく人間の喜びと悲しみをそくそくと描き出している。
私は二十歳を過ぎたころ、鷗外の書いた明治の現代小説や江戸の時代小説はおおよそ読んでいたので、カルト的な人気のある作品に思えた「渋江抽斎」に手を伸ばした。予期したとおり、作品の百十九回あるうち二十回あたりで読み進めなくなった。次に取り組んだのは、五十歳を過ぎたころである。ほるぷ出版の大きな活字本を古本屋で見つけ、最後まで読み通した。それぞれの人生の中に命輝くところがあり、しみじみとした味わいのところあり、読み終えた充実感もあった。この作品を熱く語り、盛んに褒める人の気持ちがようやく分かってきた。彼らは皆老境の人である。
今、六十半ばを過ぎて人生の終末も見えてきたこのごろ、この作品を岩波書店の鷗外歴史文学全集の詳しい注を参照しながら読み返してみると、老人による老人のための老人を癒し慰める作品であるとの感が深い。たくさんのさまざまな生や死が刻まれた記述は老人の癒しになるのだろう。また、個人が消滅してもその家族子孫、彼に関わる人々がさらに生き続けるという感慨は老人の慰めになるのだろう。
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