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黒いトランク  鮎川哲也作

 戦後の本格探偵小説の中でアリバイ崩しの名作といったらこれ。
 二つのトランクのどちらかには死体が詰め込まれている。Aトランクは、東京の原宿駅から福岡県の二島駅へ送られる。いったんそこで引き取られた後、再び二島駅から東京の汐留駅へ送られる。数日おいてトランクの中から死体が発見される。Bトランクは、東京の新宿駅から福岡県の若松駅へ送られる。いったんそこで引き取られた後、再び若松駅の近くの遠賀駅から東京の新宿駅に送られる。AトランクとBトランクはどこかで交錯し、死体を入れ替えたのか。あるいはトランクごと入れ替えたのか。いよいよ謎は深まる。さらに主要な容疑者には鉄壁なアリバイがあった‥‥アリバイ・トリックの謎を解き明かすべく、探偵役の鬼貫警部の地道な捜査が続く。
 クロフツの有名な作品「樽」では、死体の入った樽がパリからロンドンへ、ロンドンからパリへと行き来する。肝心な容疑者にはアリバイがあり、探偵役の弁護士と私立探偵がアリバイを崩し犯人に迫る。
 鮎川の「黒いトランク」は、この「樽」から大きな影響を受けているが、新たな着想からさらに綿密な論理を施し、本格マニアをうならせる作品になっている。しかし、論理が緻密で精巧なぶん、物語性が弱く、ミステリの初心者には読み通すのがしんどいかもしれない。そこで、まず「樽」を読んでアリバイ崩しのおもしろさを知り、次に「黒いトランク」を読むと、さらにそのおもしろさが深まるのではないか。

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獄門島  横溝正史作

 戦後の本格探偵小説の中で人気の高いのはこれ。
 瀬戸内海に浮かぶ小島、獄門島。網元として島全体を支配している鬼頭家。その鬼頭家の三人姉妹が次々と殺されていく。それも俳句に見立てて。第一の殺人は、「鶯の身をさかさまに初音哉」の見立てで、花子の死体が寺の梅の木に逆さにつるされている。同じように、第二、第三の犯行が続く。
 探偵役の金田一耕助が推理を働かせて世にも不思議で奇怪な真相にたどり着く。
 欧米の本格ミステリから学び、特にカーの作品に感激した作者は、日本の風土に根ざした怪奇色のある本格探偵小説を創り上げた。同じ作家の作品で、見立て殺人の趣向としては、「悪魔の手毬唄」「犬神家の一族」なども人気がある。
 リアリティのない「化け物屋敷」と悪口を言われながらも、本格ものの遊び心は息抜きの楽しみにはもってこいである。ただし、続けて読むと同工異曲の感がしないでもない。忘れたころにまた読んでみるのがいいかもしれない。何でもありの犯罪を題材にした小説の中で本格ものは、何でもありの恋愛小説における純愛ものと並んで、しぶとく生き続けるにちがいない。

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堕ちる天使  ウィリアム・ヒョーツバーグ作

 探偵による真相の解明が、悪魔の出現に至るミステリはこれ。
 舞台は第二次世界大戦が終わって十数年後のニューヨーク。主人公はタイムズ・スクェアに探偵事務所をもつ私立探偵ハリー・エンジェル。探偵は、戦前活躍したスゥイング・バンドの歌手ジョニーの安否確認と行方捜査を依頼される。まず、彼はジョニーが入院している陸軍病院を調査に訪ねると、‥‥占星術、ヴィードゥ教、悪魔崇拝に関わる者たちが登場し、殺人が相次いで起きる。背後で暗躍しているのは何者なのか。
 作者はハードボイルドのスタイルを踏襲し、オカルトの衣装をまとわせ、あっと驚く怪奇幻想の解決で結ぶ。合理的な解明を期待する読者は、不可解な事件や謎めいた犯罪が、悪魔のいるオカルト世界を想定すると合理的に解釈できるという二律背反のジレンマ陥る。
 この奇妙な味わいは何なのか。小説の中で悪魔が探偵の「わたし」を笑うように、作者はハードボイルドの探偵小説をパロディにして笑っているのである。

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