(※作品に仕掛けられたトリックを明かしますので未読の方は読まないでください。)
この作品を難解にしているものが幾つかある。第一に作品の構成である。この作品は大きく四つに分かれている。記述全体における各篇の割合を%で示す。
○現在篇 「私」の独白と若林博士との対話 19%
(大正15年11月20日真夜中から午前)
○書類篇 正木博士の残した書類5部を読む 47%
(大正15年11月20日午前)
○過去篇 「私」が10月20日午前を回想したシーン 30%
<正木博士との対話>
(大正15年11月20日午前)
○解決篇<現在篇のつづき> 新聞記事と「私」の独白 4%
(大正15年11月20日午後から真夜中)
すなわち、物語全体は、11月20日の真夜中(午前)に始まり真夜中(午後)に終わる。一日の出来事になっている。過去篇の回想シーンが現在篇と地続きに語られ解決篇につながっているので混乱してしまう。これが大きなトリックになっている。
[1回]
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危険な思想を探偵小説で装い、不条理で怪奇な幻魔術をほどこした迷宮小説はこれ。
主人公の「私」は病院の一室で眠りから覚める。過去の記憶がすっかり喪失している。そこに九州帝国大学法医学教授の若林博士が来ていろいろ説明し、「自分を思い出すための治療」をほどこしていると言う。そして、「私」の記憶の回復が、新しい研究の例証になり、また不可思議な犯罪事件の解明にもつながると話す。それから、自分の過去を思い出すために関係者(狂っている美少女)や参考となる品物、書き物などを見せられる。
そこから分かってきたことは、呉一郎という青年の起こした事件である。彼は二年前に母親を殺し、今年の四月には許婚の従妹モヨ子を殺したという。はたして「私」が呉一郎なのか‥‥
次に、精神病科主任教授の正木博士が現れて言うには、若林博士と正木博士の間に研究上の競争、対立があり、「私」を実験材料にして精神科学のテーマを追求しているようなのだ。正木博士は、若林博士の策略を話し、彼の言うことを信じてはいけない、自分が真相を教えてやると言う。どちらの話が真実なのか。あるいは‥‥
主人公の「私」は、試行錯誤しながら推理しては打ち消しを繰り返し、最後に真相らしきものにたどり着くが、やがて病院の一室で悪夢に戦きながら眠りの中に沈んでいく。まるで迷宮の中からいつまでも抜け出せないかのように。
[1回]
この小説の関係者の話を聞いてみる。
○江戸川乱歩(探偵小説家)
そこには探偵小説的なるあらゆる興味、探偵読者をして随喜渇仰せしめる所のあらゆる魅力、怪奇犯罪史、怪奇宗教史、怪奇心理学史、怪奇医学史、怪奇建築史々々の目もあやなる緯糸と、逆説、暗喩、象徴等々の抽象論理の五色の経糸とによって織り成された一大曼荼羅が、絢爛として光り輝いていたのである。
○渋澤龍彦(文学者)
私の考えるのに、虫太郎一代の傑作たる「黒死館殺人事件」は、キリスト教異端やオカルティズム文学の伝統の全く存在しない日本に、本格的なオカルティズム小説を打ち樹てるという、まさに空中楼閣の建設にもひとしい超人的な力業の結晶であった。
○原田邦夫(文学研究者)
探偵小説はおおかた、犯人の残した犯跡を探偵が集め、ひとつの話として再構成することで真相に到達するものとみなされている。けれども法水は、犯跡をすべてペダントリーのなかに分散させ、あるいは逆にペダントリーから摘出して真相に迫ろうとする。そのことからいえば、「黒死館殺人事件」は、探偵小説の、ひいては再現を旨とする物語そのものの壮大なパロディにほかならないのである。
というわけで、この作品は、ミステリの初心者はもちろんのこと、ある程度読み込んだ中級者でもまだ遠ざけておいたほうがよい。主要な内外のミステリは大体読んだという上級者のうち、退屈なので毛色の変わったものを読んでみたい人向きの本である。ただし、本格推理ファンにはたぶん永久に向かないだろう。作者にはそんな気はないのだろうが、作者に弄ばれからかわれている気がしないでもないからである。
[1回]