本書の新訳(訳者:柳沢由美子 2013年)が出たので読んでみた。旧訳(訳者:高見浩 1972年)は英訳本を底本にしていたが、今度の新訳はスウェーデン語から直接訳されている。旧訳は文章がこなれていて読みやすい。新訳は原作に忠実に的確に訳しているように思われる。
新訳を読んでみて、ストーリーや主な登場人物の印象は以前と変らないと思った。しかし、文章の流れや言葉遣い、描写の細かいところで微妙に印象が違った。
結びの部分を比べてみると、旧訳では次のようになっている。
マルテイン・ベックは答えなかった。彼はただ受話器を手にすわっていた。そして低く笑いだした。
これに対して新訳ではこうなる。
マルテイン・ベックは答えなかった。受話器を持ったまま座っていた。それから低く笑いだした。
「いいね」と言ってコルベリがポケットの中をまさぐった。「これぞまさしく笑う警官。歌の文句どおり、ほ ら、 一クローナやるよ!」
英訳本を用いた旧訳では、結びの二行がカットされていることが分かる。このカットで余韻の残る終わり方になっている。人生の不条理を笑う主人公の諦念を感じさせ、これはこれで味わい深いが、原作を軽視していることが気にかかる。新訳では、出だしの場面(ベックとコルベリのチェスの場面)に呼応させて、ベックとコルベリの会話の場面で締めくくりたかったに違いない。主人公ベックの諦念をユーモアで受け入れる友人コルベリの絵柄もなかなかのものである。
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密室状態の山中で起きる首無し連続殺人とその犯人消失の謎を論理的に解明し、どんでん返しの連発で決める本格ミステリはこれ。
首無しにまつわる伝説が生きている深山幽谷の媛首村。その村を治める秘守一族。そしてその本家の長男の長寿郎。彼が三人の花嫁候補から花嫁を選ぶための「婚舎の集い」。その「婚舎の集い」において、候補者の一人が首無しの死体で発見され、長寿郎は失踪してしまう。やがて、長寿郎の首が見つかり、さらに第三の首無し死体が出てくるに及んで‥‥
この小説を読みながら、乱歩、正史、カー、クイーンなどの小説を混ぜ合わせたような味わいを覚えた。すなわち、おどろおどろしく妖美で怪しげな世界、、曲芸的なトリックと緻密な論理的解明で読者を楽しませてくれる。騙りの仕掛けとトリックの組み合わせで不可能犯罪を創り出す力技に感心した。
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この小説全体を通して特徴的なことは、衒学的な知識を過剰にちりばめていることである。物語の背景となる中世の時代における修道院の生活や宗教、文化や思想を理解する上で必要なところもあれば、多すぎて物語のテンポを遅らせているところもある。小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」ほどではないが。
知識や認識について、事実、仮説、推理、事実相互の関連、可能な事態の想像、媒概念などについて言い及んでいる。「真の学問は、まさに記号である観念で満足してはならず、個々の真相のうちに捉え返さねばならない」とか「書物というのは信じるためにではなく、検討されるべき対象として、つねに書かれるのだ」とか「迷宮の謎を解くときには、その中にいるよりも外に出たほうがよい」とかウイリアムはその時々に語る。作者の記号論学者としての顔が現れてくる。
また、ウイリアムは第1日で「この世界に何らかの秩序があることに心の慰めを感じたいと願っている」と語るが、事件の終局に至る第7日では、「本来ならばこの宇宙に秩序など存在しないと思いしるべきだった」という無神論的な感慨に至ってしまう。このような、作品のいたるところに飾られた博識な知識や深い思想を楽しめるか否かに、この小説の成否の一端がかかっていると言ってもよい。
007のショーン・コネリー主演の映画は、ミステリとしてみた時に、小説よりおもしろかった。小説にあった過剰な観念の遊びを省略して、物語にスリルとサスペンスを生かしたからである。また、物語の舞台となる中世の修道院をスペクタクルに見せるのに成功したからである。
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