この小説全体を通して特徴的なことは、衒学的な知識を過剰にちりばめていることである。物語の背景となる中世の時代における修道院の生活や宗教、文化や思想を理解する上で必要なところもあれば、多すぎて物語のテンポを遅らせているところもある。小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」ほどではないが。
知識や認識について、事実、仮説、推理、事実相互の関連、可能な事態の想像、媒概念などについて言い及んでいる。「真の学問は、まさに記号である観念で満足してはならず、個々の真相のうちに捉え返さねばならない」とか「書物というのは信じるためにではなく、検討されるべき対象として、つねに書かれるのだ」とか「迷宮の謎を解くときには、その中にいるよりも外に出たほうがよい」とかウイリアムはその時々に語る。作者の記号論学者としての顔が現れてくる。
また、ウイリアムは第1日で「この世界に何らかの秩序があることに心の慰めを感じたいと願っている」と語るが、事件の終局に至る第7日では、「本来ならばこの宇宙に秩序など存在しないと思いしるべきだった」という無神論的な感慨に至ってしまう。このような、作品のいたるところに飾られた博識な知識や深い思想を楽しめるか否かに、この小説の成否の一端がかかっていると言ってもよい。
007のショーン・コネリー主演の映画は、ミステリとしてみた時に、小説よりおもしろかった。小説にあった過剰な観念の遊びを省略して、物語にスリルとサスペンスを生かしたからである。また、物語の舞台となる中世の修道院をスペクタクルに見せるのに成功したからである。
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中世の修道院で起こる連続殺人事件という推理物語の中に、もう一つの歴史物語がはめ込まれている。それはキリスト教における正統と異端をめぐる争いである。
物語の舞台は1327年の北イタリア山中の修道院。物語の背景には教皇と皇帝の権益をめぐる対立、またキリスト教会内部での主流派とフランチェスコ会の対立があった。フランチェスコ教会は厳格主義(キリストの清貧)を認め、皇帝はフランチェスコ会を支持したが、教皇の主流派はこれを異端として断罪した。主流派とフランチェスコ会が和解するように、両者の使節団による会談がこの修道院で開かれることになり、皇帝の特使としてウイリアム修道士が派遣されたのだった。
この会談に先立って、ドルチーノ修道士が率いる武装集団の反乱があった。彼らは「争いがあればどこへでも入りこみ、清貧という名目のもとに他人の財産を襲うための説教の口実を引き出した。」そして最後には捉えられて残虐に処刑されたという事件である。このドルチーノの仲間に加わっていてやがてその集団から離れていった分子が、この修道院に紛れ込んでいる。
使節団の両者による会談が何とか和解が成立しそうになったところに、殺人事件の容疑者が捕まる。そこで容疑者に対する異端審問が開かれる。そして、容疑者はドルチーノ派の異端分子であることが発覚する。そのために会談が決裂し失敗に終わってしまう。
ドルチーノ派に関わる物語について、純粋であるから異端になり、性急になり、恐怖をよびおこすものに対して、師ウイリアムは弟子アドソに諭す。「恐れたほうがよいぞ、アドソよ、預言者たちや真実のために死のうとする者たちを。なぜなら彼らこそは、往々にして、多くの人びとを自分の死の道連れにし、ときには自分たちよりも先に死なせ、場合によっては自分たちの身代りにして、破滅に至らしめるからだ。」もちろんこれは昔に限ったことではない。テロリストをヒーローとみる勢力のいる現代世界に生きる私たちへの作者のメッセージである。
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