丸谷才一によれば、長篇小説の三大要素はストーリイ、人物像、文章である。この三つがよく練られた小説はそれほど多くはない。その数少ない中の一つがこれである。
主人公は1920年代のアメリカに生きる、しがない探偵である。「デブで、中年で、情けしらずの頑固者」である。探偵社に雇われた調査員として、虎穴に入らずんば虎児を得ず式に、どんどん現場に飛び込んでいく。
ストーリーは変化に富んでいて目まぐるしく進んでいく。彼は調査を進め、状況を動かし、犯行を明らかにし、身の証を立てる。最後までハラハラ、ドキドキの連続である。
文章は、小鷹信光の訳で読むと、テンポよくきびきびとしている。要点を押さえて無駄がない。行動や会話がストーリーを動かし、人物像を浮かび上がらせる。こんなふうである。こんな書き方をどれほどたくさんのアクション派の探偵小説作家が学び真似たことか。
(例文1)
「車の中の男がホイスパーだ」ビル・クイントがいった。
肉のたっぷりついた男の肩越しに、セイラーの横顔に目をやった。色の浅黒い、小柄な若い男で、鋳型で打ちぬかれたような整った顔立ちをしていた。
「かわいい坊やだ」私はいった。
「まあな」灰色っぽい男も認めた。「おまけに、ダイナマイトのように危険だ」
(例文2)
通りの向こうで、軒下から踏みだした大男のニックが両手に銃をかまえ、撃ってきた。
私は拳銃をもった腕を床に据えた。ニックの体が照星と重なった。引金を引いた。ニックは打つのをやめた。彼は二挺の銃を胸の前で交差させ、どさっと歩道に倒れた。
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